生誕
1951年7月11日、当時の地名・碧海郡安城村大字山崎字大手にて出生。
父:山本利信(当時34歳)関西電力株式会社東海支社勤務
母:山本ふき(当時28歳)
父方の高祖父祖父は、天保後期安祥山崎村大手の名主・山本喜右衛門。
母方の大叔父は、東亜キネマの作家・乙部静雄(昭和五年上映:「黒蜥蜴の夢」)。
その門下及び僚友に、羅門光三郎、藤田進。
学歴
1964年 安城市立錦町小学校卒業 1967年 安城市立安城南中学校卒業
1970年 愛知県立西尾高等学校卒業 1974年 駒澤大学経営学部卒業
幼児期
4歳から6歳の頃、母親に連れられて週に一度訪れた映画館・安城座で鑑賞した東映時代劇の劇伴
音楽に親しみを覚える。同時期に山崎町の個人ピアノ教師・鈴木清乃先生からピアノとクラシック
音楽を習う。その頃よく聴いた音楽は、隣家の応接室に置かれた蓄音機の上で回るSPレコードで、
その歌手や曲名は記憶していないが、浪曲、民謡、オペラ、と多様であった。やがて当山本家にも
レコードプレーヤーが導入され、父親が据え置きラジオを接続してスピーカーとし、名鉄百貨店の
バーゲンセールで購入したクラシックのLPレコードを与えられてそれに聴き入ったが、ブラームス
以外には大きな感動を持たなかった。幼稚園の卒園公演の器楽合奏ではシンバルを担当。劇「キツ
ネのおんがえし」ではキツネのコンザブローと進行役の二役を演じて、父母会の拍手を得た。
少年期
小学校に上がってから中断していたピアノの練習を、4年生時に再開し、当時の学級四年松組の受
け持ちをされていた、岡田昌子先生(楽曲「少年の夢は生きている」のラストに登場するやさしい
先生)の元に通う。赤いバイエル、黄色いバイエルと終了し、教本がブルグミュラーに変わった頃、
左右の指の相対性に違和感と困難を感じ始め、先生もそれに気づかれて、ゆっくりと丁寧に教えて
くださったが、やがて己のピアノセンスの無さに目覚め、ちょうどその頃、マイカー(自転車)の
調子が悪く、先生のお宅までの15分の間に何度もチェーンが外れて、「先生のお宅に時間通りに行
けない」と、身勝手な理由をこしらえ、たしかーー、ツェルニーの3番に差しかかったあたりにて、
ついにピアノの練習を断念、以後は我流で弾き込む。従って、Key inC と Key inAm 以外は 自由に
弾けない。高学年になり、歌謡曲の作曲家、吉田正、遠藤実、渡久地政信の巨匠らに傾倒し、また
ポップスも楽しみ、授業中にツイストを踊って注意された事も少なくない。
中学生期からはビートルズに熱中し、同級生とバンドを組み、一般的なオリジナル曲の創作を始め
る。同時に、加山雄三や荒木一郎も愛聴し、彼らを模倣した曲も幾つか残っている。また、中学生
の三年間は、入学時に新設された
*リードバンドオーケストラ、に入部し、最初にコントラバスを担当、次にクラリネット、そして
トロンボーンを吹奏。このオーケストラで中部日本放送(CBC)中学生音楽コンクールに参加し、
見事、最優秀賞を受賞、歓喜に浸る。編曲法と写譜もこの時期に覚え始め、恩師の味岡亘先生には、
感謝の思いが絶えない。
(*オーケストラ楽器編成中のコントラバスを除く弦楽器をアコーデオンに替えて演奏するスタイル。
例=ヴァイオリン→ソプラノアコ、ヴィオラ→アルトアコ、チェロ→テナーアコ
主にクラシックを演奏したが、ジャズ、マーチ、国歌なども、運動会や式典に応じて演奏した。
バンド形式名の名付け親は、味岡亘先生。)
青春期
西尾高校1年生の頃、フォークソングブームが到来。中でもソロで全国を行脚していた高石友也に
心酔する。何度かステージを見学し、ある時は友人の伊原道雄と共に、休憩時間の舞台に上がらせ
てもらい、オリジナル曲「朝霧の城下町」を歌唱した。話術、ギターのピッキングなど、たくさん
の高石友也の印象が、今の山本正之のステージに醸し出る。フォークバンドを組み学園祭で上演し、
生徒会役員選挙の折は、ギター弾き語りで「受験生ブルース」の替え歌「西高生ブルース」を携え
て、生徒会長候補の応援演説もした。もちろんその候補者は当選。そしてこの頃より、将来自分は、
こういう生き方をしたい、楽器を弾き、歌を歌い、誰かに何かを残す仕事をしたい、と、望むよう
になった。
学生期
学業はさておき、日月終始、歌作りに励む。身近の生活から、故郷、恋心、未来、哲学、物理化学、
歴史、義侠、愛憎など、あらゆる題材を歌に変えて、只々ストックを増やすことに専念。朝に登校、
受講、自作の弁当、午後の受講、下校、ギター練習、自炊の夕食、そして明け方の就寝まで歌作り。
1971年の夏頃、下宿の仲間同士でTBS放送の深夜番組「北山修のパックインミュージック」が話題
になる。番組中で昭和三十年代のテレビドラマ「月光仮面」がブームになり、毎回、月光仮面につ
いての思い出や懐かしみのハガキが読み上げられていた。下宿の最長老学生の発想に基づき、この
月光仮面の歌を作り、番組に投稿しよう、となり、作詞作曲を山本が担当、他数名は歌唱、セリフ、
録音を分担し、デモテープ制作に臨んだ。やはりカセットよりオープンリールの方がカッコイイだ
ろうということで、西尾高校の先輩の勤務先の、ボルト製造会社にテープレコーダーを拝借に行き、
そのままそこの地下会議室をも使用が許可されて、録音遂行。出来上がったテープを、翌日TBSに
送付。そして、番組放送日の深夜となる。
北山修「ええー、ここで番組に寄せられたテープをおかけします、例の月光仮面の歌で、
山本まさゆきとその一味、『月光仮面よもう一度』、どうぞ」
ラジオを取り巻いて聞き静む、この一味が、同時に嬌声をあげた。山本正之の歌声が電波に乗った
のもこの時が最初である。以後、翌週もそのまた翌週も、この曲が話題になり、リクエストハガキ
もたくさん寄せられ「山本まさゆきとその一味」は、もしや!、という期待に胸が鳴るのであった。
それから3週後の放送が終わった翌日だったと記憶している。下宿の大家さんの声、「おーい山本
くんー、電話ですよおー」、階段を降り、別棟の大家さんの玄関に入り下駄箱の上の受話器をとる。
「あ、もしもし私、TBSの加藤というものですが、山本さんから寄せられた歌がすごい評判になっ
ていて、それについて、新興楽譜という音楽出版社が山本さんとお話をしたい、ということで、こ
れから言います番号に電話をしていただきたいんです、ええと、03のーーーー」、この電話番号
をメモしながら、私はすでに「デビューだ!」と、喜び勇んで止まなかった。数日後、神田淡路町
にある新興楽譜(現・シンコーミュージック)を訪れ、レコード化の意向を伝えられる。同時期に、
どちらが先であったかは不明だが、もう1グループからテープが寄せられ、それとカップリングに
するか、この二者のものを融合させて1曲にするかどうか考慮中、との事。そのもう1つのデモは、
オリジナルではなく、元来のテレビドラマ・月光仮面の主題歌である「月光仮面は誰でしょう」を、
エレキギターで弾いたインストゥルメンタルであった。山本まさゆきとその一味、は、全てをその
プロデューサーに委ねて、淡路町を後にした。それから日々、シンコーに電話をしては「まだ検討
中ーー」などという曖昧な返事に甘んじ続けておよそひと月、ーーあの、モップスの「月光仮面」
が発売されたのである。新興楽譜出版は「これが出ちゃったからねえーー」と、企画の取り消しを
宣告。同時に、山本まさゆきとその一味、も、解散と相成った。
デビューの直前
その後も新興楽譜には連絡をとり続け、生演奏で作品を聴いてもらったり、「目下売り出し中」の
フォーク歌手のライブに「参考にしなさいよ」と招待していただいたり、後に共に株式会社を設立
する作家グループ「フォーメン」を紹介されて、その合同ライブに出演したり、当時有数のジャズ
喫茶(今でいうライブハウス)新宿ムーランルージュのカラ舞台で歌わせてもらったり。ある時は
三重県出身の清純派歌手Sさんの、マネージャーのお手伝いで、テレビ出演やサイン会に同行させ
ていただいて、東海テレビの大きな撮影スタジオで、オリコントップテンに輝いていた彼女の曲の
パート譜を、フルバンドの譜面台に置いたり、ハンカチやシャツへのサインの方法に感嘆したり。
山本屋の味噌煮込みうどんの、正しいいただき方を習ったのも、この頃でした。
キングレコードへギター持参で赴き、デモ歌唱をして好評を得、ヤマハのポプコンに出場するよう
勧められ、地区大会までは勝ち抜けたり(この時の作品が「風の中」)、同じくキングレコードに
て、昭和のこどもたちをテーマにアルバムを作りましょう、ついてはジャケットを西岸良平さんに
お願いしてみましょう、と、目の前でディレクターが、西岸さんの自宅に電話をし、「それは出来
かねます」とのお応えで、即、見送りとなったり(こ時の作品が「夕涼み」「大晦日」など)、テ
イチクレコードの宣伝の仕事があるからやってみないか、と言われて行ってみれば、ボイラー室の
アルバイトだったり、超売れっ子作曲家先生のアシスタントの募集があり、お宅をお訪ねしたら、
「あなたは、アシスタントを経ないで、ご自分の感性で世に出るべきです」と励まされたり。
大学も四年生を迎え、学友たちは就職に散ってゆき、一人下宿に残り、それでも歌を作り続ける。
実家より肩を押され、2、3の広告代理店、商社などの試験を受ける、が、答案用紙は白紙で提出。
己の才能と、運命と、歌への一途、に懐疑を感じるも、それでもなお、歌を作る。
そして、昭和49年夏、その時がやってくる。
デビューの波光
下宿していた世田谷中町から渋谷駅まで、東急バスに乗った。国道246号線。用賀を出て、桜新町、
駒沢、三軒茶屋、大橋、そして渋谷。夜、八時頃だったか。街の灯りがゆっくり遠ざかる。渋谷か
らは、また同じ道を、今度は歩いて帰ろう。その途中を、未来を決める時間にしよう。もう、お金
もない。チャンスを待つ事に疲れた。歌に、見放された。舗道を歩く。三軒茶屋辺り、丸まってい
た背中が、少し伸びる。お金、何か働けば手に入る。チャンスはまだ残されている。歌が、まだ側
にいる。駒沢だ、背筋がまっすぐになる。お金、関係ない。チャンスがすぐそこに来る。歌が、い
きなり自分を抱きしめる。中町に戻り着く。
そして、あの波光が見えた。
矢沢川に沿って歩き、神学院女子校の前の信号を渡れば、自分の部屋がある。二階の東南の角部屋、
あれ?明かりが点いている、消して出たはずなのに、あれ?誰かいる、鍵をかけて出たはずなのに、
階段を上がる、あ、ドアが開く、あ、ラジオがかかっている、かけて出ていないのに、あ、中日だ、
中日の野球中継だ、負けている、あ、チャンスだ、代打だ、藤波だ、ーーー、打った!打った!!
オレは何をやってるんだ、何を悩んでるんだ、何を心配してるんだ、中日球場の大歓声、同じ歳の
藤波行雄が、グランドを駆け抜ける!。そしてわかった。誰もが、何かを、できるんだ。いかなる
現実も具象も僅かの兆しも目に見えないまま、「今がチャンスだ」と悟った。どう進行するかも、
何が関わるかも、誰が紡ぐかも耳に聞こえないまま、「チャンスだ」と、自覚した。
暗い、どん底にいる時こそ、「チャンスだ」と。
遠い夜空にこだまする 竜の叫びを耳にして 中日球場つめかけた 僕らをじいんとしびれさす
制作したデモテープを、まず、故郷西尾高校の詩友であり、詩人の神谷直樹くんに聴いてもらった。
同行来室したモデルの Emmy さんが「これ、すごい、すごい、これ、ヒットする!」と 瞳を青く
染める。彼女は野球をまったく知らない。その彼女が、「ヒットする!」
そして、 「ヒット」した。
発売当日、名古屋松坂屋の5階のレコード売り場までの階段に、1階からお客様が並んだ。ラジオ
ではCBCが繰り返し繰り返し、盤を回してくれる。巷間にても、昼夜にこのレコードが流れ続ける。
努力とか苦難とか逆境とか、世に沙羅婆しきは多けれど、「チャンス」と覚った日、そのチャンス
が、万雷の波光を届けてくれる。
デビュー以降
楽曲「燃えよドラゴンズ!」の印税は、当時有楽町の東宝ビル内に所在した、東宝音楽出版の経理
部長のデスクの前で、現金で受け取った。その内から新式のテープレコーダー、ミキサー、カラー
テレビを購入し、世田谷の下宿から中野のマンションに転居する費用にも充てた。鉄筋コンクリー
トなので、心おきなくデモを作れる。「フォーメン」のメンバーたちの誘いを受けて、株式会社・
魔人社音楽工房の設立に参加し、同社取締役となる。魔人社の縁でニッポン放送と繋がり、笑福亭
鶴光に楽曲「うぐいすだにミュージックホール」を提供し、ヒット曲となる。「うぐいすだに〜〜」
を聞き付けた大阪の個人音楽プロデューサーからの依頼で、間寛平に楽曲「ひらけ!チューリップ」
を提供。これもまた、ヒット曲となる。
「うぐいすだに〜〜〜」を発売したワーナー・パイオニアの縁で、竜の子プロの新作テレビアニメ
「タイムボカン」の主題歌を作詞作曲歌唱、これにて世界初の「アニソンシンガーソングライター」
と自称する。同じく竜の子プロアニメ「ヤッターマン」の放映期間中に、魔人社音楽工房を離籍し、
ソロ活動に転身。以降「タイムボカンシリーズ」を主に多数のアニソンを発表、並行してテレビ各
局の幼児番組にも楽曲を提供。1982年 10月16日から 1983年 1月15日までの 毎週土曜日午後6時
より7時半まで、自身が劇伴音楽を担当したアニメ番組が3本続く、という希世喜驚も体験した。
1986年秋、舞台演劇と街頭演奏研修のため米国に渡航。帰国直後、漫画家ゆうきまさみ氏の関係
者より連絡があり、イメージアルバム「究極超人あ〜る」の音楽制作を受諾する。翌 1987年に発
売されたアルバム「究極超人あ〜る」は大好評を得て、1991年の劇場映画製作へと連動してゆく。
この間、当初あ〜るの担当ディレクターであった川瀬朗氏( 現 BellaBeaux Entertainment 社長 )
の弛まぬ尽力で、自身のオリジナルアルバム「山本正之’88」を発表し、アルバムアーティストと
しての活動を開始する。以後、ワーナー系からテイチク、サスクハナ、とレーベルの変遷を以って
2000年より現在まで、BellaBeaux Entertainment にて新作の発表を継続している。
また、1980年に舞台演劇「王様の耳はファンタジー(作:榎雄一郎)」の音楽を担当した事から、
劇団活動に大きな興味を持ち、1988年に「劇団 山本正之プレゼンツ」を主宰し、劇作家、舞台演
出家としての仕事も始動した。
2003年夏、AnimeJapanFess(AJF)に初参加を果たして自分のアニソン歌手としての自覚を再
確認し、以後、*2008年を除いて全年参加、正義と勇気を、舞台に掲げ続けている。
(*2008年は、よみうりテレビ制作のリメイク版「ヤッターマン」が放送され、主題歌の歌唱者が
山本まさゆきではなくなったため、この年に限り山本はアニソンシンガーではなく、作家の位置
に座し、舞台での歌唱は辞退した。)