☆製作まで
モデルの Emmy さんが「ヒットする!」と声を青く枯らした翌週、郷里の先輩が当下宿に投宿し
たので、またもやこのデモテープを聴いてもらうと、彼は、
「*名古屋の二大放送局、CBCと東海で、中日の応援歌を募集しているから、応募したらどうだ、
賞金が10万円もらえるぞ」
と作者を勇めた。実は母から、ちょうど10万円借用していたことを手繰り合わせ「ダメモト」で
2局同時にデモテープを送付、9月の初旬であった。そしてその数日後、池袋の友人宅での三日間
のハムライス居候生活を過ごして帰宅した作者の部屋の扉に、大家さんや隣室の学生達の走り書き
のメモが、いっぱいに貼り付けられていたのだった。
「9/13 名古屋東海ラジオより電話がありました、052-** ◇◇さんまで電話してください
山本さんが作曲した音楽が大変好評でしたとの事・渡辺」
「9月14日午前中にCBCよりTELある。(野田より)」
「テープが毎日のようにラジオで流れており、レコードの話ありとのことなので、斎藤先輩に
連絡されたし。(錦戸より)」
他々。
そのメモ群を読む作者の足元、踵の芯あたりから、マグマのような熱嵐が響き上がって来た。
ついにきた、とうとうきた、やっと、きた
名古屋各局に電話をし、訪局し、CBCに於いては、スポーツ部、報道部、芸能部、レコード室と、
要職の面々を紹介され、番組にも出演。サテライトスタジオの公開放送に於て、それを聞き付けて
「つめかけた」人々に、ギターで歌唱指導。その後、東宝レコードの担当者が来局し、翌週、中部
日本放送会議室にて、各部長、局長、レコード室長が列席の元、この楽曲のレコード製作を発表。
この頃、アセテート盤シングルレコードを発売するには、原盤制作終了後、プレスが完了して店頭
に並ぶまでには、約1ヶ月半かかるというのが常識だったが、それに従えば、発売の頃には、もう
セ・リーグの覇者が決まってしまい、売れ行きに多大な影響があるかもしれない、との懸念の中、
東宝レコードが他の作品のプレスを全て止め、この「燃えよドラゴンズ!」をまず1万枚、1週間
で製造します、と確約してくれた。発売直後もプレス作業は休まず継続し、中日も快進撃、やがて
二十年ぶりの優勝を果たし、そして益々増産されるこのレコード盤は、日本中の中日ファンの元へ
届けられていった。
(*CBC東海とも応援歌を募集しておらず、賞金10万円も先輩が作者を勇める為の作話であった)
☆録音(レコーディング)
製作決定後、即、編曲家と打ち合わせ。この時まだデビュー前の作者は、フォーメンの仲間S君の
作品に編曲を施していた、神保正明先生を指定。それはわりとソフトでナイーブな女性歌手の青春
歌謡曲であったが、どこかに、力強いルートがあった。ブラスと弦の和声が、シンプルでなお広が
りがあった。当時の神保先生の仕事場を訪ね、デモテープをかけて、楽器編成、サイズ、Key 等を
打ち合わせ、少しの雑談の後、作者は帰宅。想いがふくらむひと時であった。
編成=4リズム・Latin・鍵盤・ブラスセクション・弦6422・他小物等
サイズ=イントロ12ber・歌3ch・間奏4ber・歌3ch・間奏8ber・歌2ch+ref・エンド5ber
テンポ=メトロノーム120
Key = Bm
録音形式=24chマルチ同時録音
やがて、レコーディングの日、麻布アオイスタジオ1stに到着し、スタッフと挨拶の後、調整室の
ソファーに座り、足を組み、タバコをつけ、コーヒーを飲む。
エンジニア「では参りましょうか」、ブース内の指揮者席の神保先生の声「はい、いきましょう」
エンジニア「はい、回りました」、先生「ワン、トゥー、・・・・」
そして、めちゃめちゃ驚いた!、バーンバ ババン バーンバ ババンと出て来た音が、
「げっこうかめんだあああああ」
そういえば、イントロのメロは先生にお任せしていた、していたが、作者は神保正明のオリジナル
を想定していたのだ、あああ、間奏にも出てくる〜〜げっこうかめんんんんん
とりあえず、一通り回してから、作者、神保先生、ディレクターとの三者会談が始まる。
(参考として当時、編曲には著作権がなく、楽曲の著作権は、歌中の部分にのみ存在し、
イントロや間奏のメロディーに著作権は認められないとの定説・俗説があった、が、
現代の常識はイントロも含めた録音物全体に著作権及び人格権がある、とされている。)
先生「あらそうなの?知らなかったよ、へえーげっこうかめんねえ、子供の頃、見てなかったのよ、
あなたのデモの間奏に出て来て、これいいなあ、って感じたものだから。著作権ダメなの?」
Der.「いや、イントロは著作権ないから、大丈夫ですよ、これで行きましょ」
作者「いやあ、ほんとに大丈夫?、ボク心配だなあ〜」
(これからイントロと間奏の編曲をやり直すには、かなりの時間がかかるだろうし、出来上がった
スコアからパート譜を作る「写譜」の作業にもまた時間がかかるだろう。その間ミュージシャン
全員を待たせるにはそれなりのチャージが必要だし、スタジオ代も更に発生する。大変だ。)
先生「じゃあね、少し変えときましょうよ、ジャーンジャ ジャジャンをジャーンジャカジャジャン」
にね」
Der.「ああ、それでいいですよ、オッケー、解決。」
作者「いいのかなああ」
そのままレコーディングは進行し、B面の「中日小唄」のオケ録りも完了の後、作者と神保先生と
Der.の三人で「中日小唄」のコーラス&あいの手をダビングし、この日の録音は終了した。
確かな記憶ではないが、おそらくこの翌日、24chマルチレコーダーを積載した 2tトラックが夜中
の東名高速を疾走、明け方、名古屋 CBC 第一スタジオに到着しその夕刻、歌い手がマイクの前に
立ち、コーラスの少年ドラゴンズががんばってくれて録音完遂。いずれかでのマスタリングの後、
原盤は、プレス工場へと飛んで行ったのである。
☆イントロ事情
さて、この「燃えよドラゴンズ!イントロげっこうかめん事情」は、レコード発売後、全く問題な
く経過し、その後「燃えよドラゴンズ!V2」「ーー77」「ーー79」と、同じイントロで製作
発売されても何も起こらず、やがて、中日が実に8年ぶりの優勝を目前にした、1982年晩夏、初
代燃えドラと同じ歌い手による「燃えよドラゴンズ!82」を発売した、その直後の事であった。
キングレコードの担当ディレクターが「困ったことがーー」と相談して来た。以下その内容。
=楽曲「月光仮面は誰でしょう」を作曲・編曲されたO・K先生が、銀座の松坂屋の店内で、今般
発売した「燃えよドラゴンズ!82」を偶然耳にされて、なんだこれは!私の作ったメロディー
じゃないか!、と驚かれ、そしてお怒りになり、当社に対処を求めてこられました。=
作者は、まず、何故今頃?と尋ねたところ、このO・K先生は、野球に全然興味がなく、それまで
の八年間の燃えドラの発売に気づいておられず、この日、何かの買い物で松坂屋を訪れて、驚愕し
た、との事。、稼業を同じくする作者としては、O・K先生のお怒り、御無念を重々と受け止め、
キングレコードを介して、事情の説明と、深い謝意と、「ーー82」販売該当分の著作権使用料を
お支払いし、O・K先生との「以後二度とこのイントロでのレコードを製作しない」という覚書に
署名捺印し、O・K先生のお許しをいただいた。尚「ーー82」より前の燃えドラのイントロにつ
いての著作権使用料は不問、との御厚情もいただいた。
これは余談であるが、この始末の数年後、古参の作曲家M・Tが司会を務める音楽番組で、いきな
り「燃えよドラゴンズ!」のイントロ(もちろん月光仮面ではなく新しいオリジナル)が流れ、ラ
イトが当たると、そこに混声合唱団が立ち並び、やおら、とおーおいよぞらにー、と合唱し始めた。
1コーラス合唱後、エンディングコーダ(これも新しいオリジナル)が付いて合唱は終了。すると
くだんの司会者作曲家M・Tが「さあ会場の皆様、この曲の=題名=はなんでしょうか?」と会場
に向かって問い出す。数人が挙手をし、作曲家M・Tが、その中の最前列の、5,6歳の女の子を、
「じゃあお嬢ちゃん、お答えください」と指差す。するとそのお嬢ちゃん、あろうことか、にっこ
り笑って、「げっこうかめん」、と答えたのだ。たった今、混声合唱団が歌った歌の、どこにも、
1小節も、げっこうかめん、の旋律は登場していない。山本正之が作曲した「燃えよドラゴンズ!」
のイントロと本編だけである。それを、5,6歳の女の子が、しかも、昭和三十三年TBS放送の連続
テレビ映画「月光仮面」の存在も、またその主題歌も、知ろうはずもないお嬢ちゃんが、にっこり
と「げっこうかめん」、ですって。後々調査の結果、作曲家M・Tと、O・K先生は、旧知の仲で
ある事が判明。これにて、前述の「御厚情」が、崩れて消えた。
☆作詞
1988年の久野誠歌唱バージョンあたりから、球団と協力体制で詞を決定していると「燃えドラプ
ロジェクト」のプロデューサーから聞いている。まず作者がアップする選手群をプロジェクト宛に知らせ、多少の入れ替えを施して、作詞作業に入る。そして出来上がりをまたプロジェクトに送り、
その原稿を持って、名古屋のうなぎ屋あたりで意見を擦り合わせ、ここだけは、という球団のアド
バイスがあればそれを参考にしつつ、作者の机上にて完成させる。巷間よく呟かれるが、ある監督
についてだけ、その名を入れず、「オレ竜監督」としているのは、山本の**嫌いによるものだ、
は、偏向である。好きか嫌いかは別にして、楽曲「燃えよドラゴンズ!」の八番の4行目には監督
名が入って当然であるのだが、彼の、監督就任後初の燃えドラ制作の折、作者が「オレ竜」ってい
うのもどうですか?とプロジェクトに相談したところ、そこから球団にこのアイデアが伝えられ、
球団より「そちらがいいと思います」との答えが返って来た、からである。しかしながら、一抹の
忍びなさを感じた作者は、せめて優勝した時はと、「ーー2006優勝記念盤」にその監督の名を、
凛として刻印した。
☆著作権
「燃えよドラゴンズ!」に拘らず、日本国内の全ての楽曲は基本として、その著作権を他者に売却
することは出来ません。しかし下記の2例に限り、その著作権の取得が可能です。
1、その校歌・社歌などの楽曲制作を依頼した団体
2、音楽出版の業務を定款に有する法人企業
いずれも、「音楽著作権譲渡契約」が必要です。2、の例えば「音楽出版社」は、作詞家・作曲家
と、まずこの契約を締結してその著作権を有し、その楽曲の利用開発に最大限の努力をする義務を
負い、決められた月日に決められた著作権使用料を著作者に分配する、という契約です。略せば、
1、「著作者(作家)」が著作時に有したその著作権を、著作権が取得できる団体に譲渡する。
2、これでこの団体はその楽曲の「著作権者」となり、著作者と著作権者の関係が成立する。
この時、著作者が著作権を他団体に譲渡しなければ、著作者が同時に著作権者となる。
3、著作者と、個人の著作権購入希望者との間に、著作権譲渡契約は締結できない。
日本音楽著作権協会JASRAC は、著作権者(協会正会員・準会員・信託契約者)が保有する著作権
を管理、保護し、その著作権の使用者から著作権使用料を徴収して、著作権者に分配する。
もっと略せば、
○ 音楽出版社
「この歌、私が日本中に広めてあげるで、著作権を売ってチョー。
そのかわり、儲かった分の何割かをあんたに払うでよ。」
○ JASRAC
「先生の権利を私共が管理・保護いたしまして、
楽曲使用者からお支払いいただた著作権使用料を、分配率に添って計算し、
先生に分配いたします。」
てな仕組みです。作者、昔聞いた話だけれど、この仕組み、アル・カポネが思いついたんだって。
ほんとかな〜〜従って、何かの記事で見かけた、楽曲「燃えよドラゴンズ!」の *版権(著作権のまちがい)を、
初代の歌い手が「売って欲しい」と言ったが売らなかった、という話は、あり得ます。作者も実際
燃えドラプロジェクトの代表から、そんなことがあった、と聞いています。
実はこの、楽曲「燃えよドラゴンズ!」の著作権、作者デビューの折に「音楽出版社と契約しなけ
ればレコードを出してもらえん!」と思い込み、しなくてもいい譲渡契約をこちらから望んで締結
してしまい、JASRACから分配された使用料の契約分%を、出版社に差し上げてしまいました。が、
現在この楽曲は、「契約期間の終了」によって解約となり、著作者(私)が著作権者です。
著作権譲渡契約は、現代でこそ契約期間が定められ(一般的に10年間)、両者の交渉によって解除
も延長もできますが、作者がデビューした頃はまだ譲渡される側(取得側)に厚遇な、
「契約期間は著作権保護期間(死後70年)」という契約書が多々存在し、作者も、これに該当する
契約を幾つか締結してしまい、今となっては如何ともし難いくやしいところではありますが、
楽曲「燃えよドラゴンズ!」の譲渡契約はこれを免れていたので、よかったです。
まとめて、
作家が作詞作曲をする→完成と同時に著作権が発生→著作権を出版社に譲渡する→出版社が放送局
などを使って宣伝する→売れる→JASRACに使用料が入る→JASRACが著作権者に分配する→著作
権者が著作者に分配する
という流れです。ちなみに山本正之は近年は殆どの楽曲を出版社に譲渡せず、JASRACと直接やり
とりしています。なぜなら、出版社を介せずとも、お客様がダイレクトで買ってくださるから!
(*版権は、明治時代に制定された、図書などを出版して収益を得る権利の意で、廃語になった
現代でもよく使われていますが、音楽著作権を意味する言葉としては正しくありません。)