ひらけ!チューリップ


「うぐいすだにミュージックホール」の大ヒットを受けて、大阪の音楽制作会社・小林音楽事務所

の小林社長が、突然魔人社を訪ねて来た。そしていきなり「かんペーちゃんに1曲ください」と頼

まれた。この直進一刀流っぽい行動に、魔人社では以降この人を「恐怖のコバちゃん」と隠呼して

いた。もうすでに発売元(徳間音工)も制作音楽出版社(第一音楽出版=一プロ)も決まっており、

ホント、恐怖の行動力であった。

日を改めて会議の時間をとり、一プロの会議室にて数曲のデモをオープンリールで聴いていただい

た。メンバーは、作者と作者のマネージャー、コバちゃん、徳間のディレクター、プロデューサー、

宣伝マンの6人。何曲目かの「哀愁のラブホテル」がみなさんお気に召して、「これだねえ」とう

なづき合い、その後のスケジュールや録音スタッフなどを話しあっていた頃、回しっぱなしにして

いたオープンリールの最後の曲「ひらけ!チューリップ」が流れ始めた。「うぐいすだに〜〜」と

同じように呼び込みの声で始まり、イントロが「軍艦マーチ」から戦時歌謡「国境の町」のもじり

のメロディーへとかわり、やがて歌が流れ出す。するとやにわに、恐怖のコバちゃんが立ち上がり

「これや!」と叫ぶ!、徳間のスタッフたちもつられて立ち上がり、「これでいきましょう!」と

喜色を発する!、作者とマネージャーは、恐怖のコバちゃんのド迫力と誘導力に顔を見合わせ、

「ホヘ〜〜〜」であった。

8月末の発売後、有線放送で拡散し始め、もちろん「当事者」である全国パチンコ店の協力も仰ぎ、

作者にとって3作目のヒット曲となる。デビュー以前、「オレはヒット曲を持つことができるんだ

ろうか」と自身の将来に不安を感じた日もあったが、デビュー1年足らずで3つも授かり、本当に

ラッキーだったと感謝している。

このヒットを以って急遽、間寛平のLPレコードを発売することが決まり、企画の第一歩からすべて

山本正之を中心に制作が進められた。全体をストーリー仕立てにし、作者が脚本を書き下ろして、

「寛平ちゃんの放浪記」と題し、一人の男がトラックの運転手、ギャンブラー、演歌歌手、そして

漫才師など、転々と職を変え、最後は自分の人生に大満足し、手拍子で音頭を歌って締める、とい

う筋書き。実際に大阪の街々でロケ(録音)を敢行し、パチンコ玉の流れる音、麻雀風景(これに

は作者も面子の一人として演技している)、間寛平ファンクラブ会員の女子高生へのインタビュー

(インタビュアーは作者)他、楽しい楽しい録音ロケであった。歌唱、セリフ、漫才も大阪のスタ

ジオで録音、吉本新喜劇の芸達者な若手俳優たちにも手伝っていただき、何より幸せだったのは、

間寛平と木村進(三代目・博多淡海)の、漫才の台本を自分が書き、それがスタジオで、目の前で

演じられる、という、何かの賞状をいただいたような仕事ができたことである。

後年、このLPレコードをCDとして再販したく、徳間音工(徳間ジャパン)に提案したところ、あ

っさり断られ、それならば作者所属のメーカー、Bella Beaux Entertainment で原盤を借り受けて

発売させてもらえないか、とお願いしたが、これも拒否された。理由は不明。そのまた数年後、全

国ツアー・マサユキ前線のどこかの会場で、観客の一人が「間寛平ゴールデンベスト」なる CD に

サインを望んで、「え?なにこれ?知らないよ〜」と収録曲目を確認したところ、なんと「放浪記」

に収録した全曲が、このアルバム中に入っているではないか!、あの、大阪で録った、街の音や、

寛平・進の漫才や、若手芸人の芝居や、その他の素敵な音声を、全て削除した、意味のわからない

楽曲ばかりを並べたアルバムが、シラっと発売されていたのだ。帰京後、徳間ジャパンに問い合わ

せると、その関係者は今や一人も在社せず、LP「放浪記」の原盤が現存するかどうかも不明、と答

えられた。 仕方がない、いつか面影橋で「お宝音源」として聴いていただこう。


(以上の記事は、Wikipedia の不正記事粛正のため、脚注としてリンクさせてあります)